16回目を数える今年度より、一つのテーマを複数年取り上げ、能・狂言の新たな楽しみ方、見所に迫ります。
第一弾となる今回は「演出」に焦点をあて、上演作品の奥深い魅力をさぐります。
プレトーク 「演出をめぐって」
片山九郎右衛門(観世流シテ方)
天野文雄(大阪大学名誉教授)
狂言 『宗論』
シテ(浄土僧) : 野村万作、シテ(法華僧) : 野村萬斎、アド(宿屋) : 野村裕基
〈休憩約15分〉
能 『二人静 立出之一声』
前シテ(里 女) : 観世銕之丞
後シテ(静御前) : 〃
ツレ (菜摘女) : 観世淳夫
ワキ(勝手宮神主): 宝生常三
笛 : 竹市学、 小鼓 : 大倉源次郎、 大鼓 : 亀井広忠
後見 : 青木道喜、鵜澤光、安藤貴康
地謡 : 片山九郎右衛門、味方玄、浦田保親、片山伸吾、分林道治、橋本忠樹、梅田嘉宏、浅井風矢
舞台監督|小坂部恵次、大田和司(京都芸術大学舞台芸術研究センター)
照明デザイン|藤原康弘
協力|銕仙会、万作の会
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演目解説
宗教問答と静の造形 ―『宗論』と『二人静』―
『宗論 (しゅうろん) 』 は、 都への道中で行き合い、 同じ宿に泊まった二人の僧がくり広げる滑稽な結末をとおして、 当時の浄土宗と日蓮宗の宗派意識を諷した、 いかにも狂言らしい作品です。
この狂言は、 作られた時代の社会に加え、 『七十一番職人歌合 (しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ) 』 や天正7 (1579) 年に行われた 〈安土宗論 (あづちしゅうろん) 〉 などが伝える浄土と法華の二宗を念頭においたものと思われますが、 二人はたがいに自派の優越を誇示して譲りません。 ところが、 夜中の勤行に目をさました二人が唱え始めたのはなんと……。
今回は、 浄土僧 ・ 法華僧ともシテでの上演です。とりわけ万作 ・ 萬斎による舞台はその感が強くなります。曲名の 『宗論』 には現在と同じ宗派意識がこめられているようです。
『二人静 (ふたりしずか) 』は、 春浅い吉野の勝手明神 (かつてみょうじん) の神前が舞台の能です。
明神に仕える菜摘みの女に取り憑いた静御前の霊が、義経にしたがった逃避行を語り、鎌倉の頼朝の御前で「しづやしづ、しづの苧環 (おだまき) くりかへし」と謡って舞ったことを序ノ舞で表わします。ここは菜摘みの女と静の霊とが、金の静烏帽子 (しずかえぼし)・長絹 (ちょうけん)という同装で現われ、同じ動作になる眼目のところです。そういう能は現行曲ではこの曲だけですが、これに異を唱えたのが江戸中期の観世元章 (かんぜもとあきら) の小書 (こがき) です。
これだと静の霊が長いこと橋掛りで動かないのですが、 これはこれで 『二人静』 の見どころを封印してしまいます。 明治の宝生九郎が、 二人もの名手は座内にいるわけがないと廃曲にした例もありますが、 今回の銕之丞氏の演出はその中間です。 これは30年ほど前に当時六之丞だった梅若桜雪 (うめわかろうせつ) 氏が演じはじめ、 その後、 銕仙会でいろいろと試みられてきたものをベースにしています。
作者は不明ですが、世阿弥の 『五音 (ごおん) 』 からほぼ同世代の井阿弥 (いあみ) の作という説もあります。 「一日経」 の語も作者を考えるヒントになるかもしれません。
なお、 トークは複数年ごとに上演曲に即した話題になります。今回からは「演出」です。
(天野 文雄)